『パラサイト 半地下の家族』を観て(ネタバレ注意)
グロバリゼーションは世界の貧富の格差を着実に無くしつつある。
一方で、かつて先進国と呼ばれた国は、国内の格差が広がっている。
映画は社会を写す鏡を言われることがある。
ここ数年の映画賞を見ると、
「万引き家族」「私は、ダニエル・ブレイク」「ジョーカー」など格差問題を描いた映画が目立つ。
今年の賞レースを席巻している韓国映画「パラサイト 半地下の家族」もそうだ。
ボン・ジュノ監督は、前作「スノーピアサー」に続き格差問題を描く。
かつて、格差については
「高台で庶民を見下ろす強欲な富裕層 vs 貧乏だが日々を一生懸命生きている純粋な貧困層」
といった単純な構図で描くことが多かった。
貧富の差は、強欲で非情な富裕層のせいだ、政治家のせいだと、分かりやすい敵を作り、貧困層の主人公が成り上がるか、富裕層をこらしめるかして、日常生活の鬱憤をはらすことができた。
しかし、成熟した現代社会はそんなことはない。
富裕層の多くは、自分の力でイノベーションを起こし、産業を産み、雇用を産んでいる。
組織を統率するには、そもそも人格者でなければ成り立たない。驚くほど腰が低い人が多いように感じる。
ノブレス・オブリージュという言葉の通り、世界の諸問題に憂い、社会活動も積極的だ。
この映画で描かれる富裕層もそうだ。
富裕層はみな純粋で良い人ばかりだ。
一方で貧困層の方が卑しく描かれている。
主人公の母親はいう。
「お金を持っている人は余裕があるから悪人はいない。
お金は強欲というシワを伸ばす」
まさにその比喩がぴったりだ。
この映画は富裕層に敵対はしない。
前半は、富裕層のおこぼれをもらうために、貧困層の主人公家族が善良な普通の人を陥れる。
中盤は、さらなる絶対的な貧困層が登場し、富裕層のおこぼれをもらうために、貧困層と絶対貧困層が卑しい争いをするという展開になる。
卑しい争いをしているが、何度も共生するチャンスはあった。
悪人は1人もいない。
この映画のやるせないところが、悪人がいないところだ。
責める相手がいない。
この格差の鬱憤を富裕層へ投げることができない。
特定の誰かの責任に押し付けることができない。
この映画の富裕層は良い人たちだ。
差別なんかしないだろう。
しかし、生理的な嫌悪感は別だ。
どんなに平等だと言っても、
どんなに差別しないと言っても、
本能的からくる感覚的な嫌悪感は消えない。
ずっとつきまとっていた「匂い」という感覚の違和感。
主人公家族は富裕層または普通の市民を装ってるが、半地下の生活で貧困の匂いが身体中に染み込んでいる。
クライマックスの惨劇は、その「匂い」がトリガーとなった。
どんなに立派な人間、高潔な人間でも、本能的嫌悪感を消すことができない。「匂い」をトリガーにすることで、決して交わることができない格差が固定された社会の有り様を表現し、絶望感が増強した。
悪人は誰も出てこない。
誰を責めることができないから、
とても、やりきれない。
世界は二項目の軸で語れるほど単純ではない。
その複雑な格差問題を、言葉で語らず、エンターテインメントで描いた本作には大いに驚嘆する。
PS.
過去のボン・ジュノ監督映画の感想文
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