映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観て
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映画感想文, 音楽 ボヘミアン・ラプソディ, 映画
11月24日、偶然にもフレディー・マーキュリーの命日に映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。
僕が子供から大学生になるまでの昭和50年代後半から昭和の終わりは、LGBTなんて言葉はなく、とんねるずの石橋貴明のゲイのキャラクターが笑いのネタになるくらいだったから、今では考えつかないように人権意識が低い時代だった。
そんな人権意識の低い田舎の中学生男子にとって、クイーンのフレディ・マーキュリーのように ヒゲ、上半身裸で胸毛ボーボー、ピタッとしたレオタードみたいなズボンでモッコリ、といった外見に対して、どう感じていたかは想像がつくだろう。
あの頃フレディは、ゲイと公表はしていなかったが、僕の周りではゲイっぽいキワモノ的扱いだったように記憶している。
さらに、ライブエイドがあった頃、僕はミュージックライフというミーハーな洋楽雑誌を卒業し、ロッキングオンを読み出して厨二病に罹患してた頃で、商業的音楽を嫌悪するのがカッコいいと思っていた。いや、本当はジャーニーとか商業ロックのことを好きなくせに、それを好きと思うのは負けだと思ってた。
だから、ライブエイドは、商業主義のミュージシャンが集まってるイベントという認識しかなく興味がなかった。
しかし、同じくライブエイドに出てたU2に対しては、U2は本当に政治的バンドでアフリカの飢餓も真剣に考えてるんだからいいんだというよく分からない理由で擁護してた。よく考えたら、フレディ・マーキュリーだって、ルーツはタンザニアなんだけど、そんなことは当時は知らなかった。
僕はクイーンの音楽は RADIO GAGA くらいからリアルタイムに新曲が出るたびに知っていたが、好きでも嫌いでもないといったところだった。
御多分に漏れず、フレディの死後によく聞くようになり、大人になってからその素晴らしい音楽に魅了されていった。
せっかくリアルタイムを知ってたのに、その良さを知ったのは死後だったとは、田舎者の中学生だった自分を恥ずかしいと思う一方で、あの時代風景、環境じゃ仕方ないかなとも思う。
前置きが長くなったが、
映画「ボヘミアン・ラプソディ」について。
最後の20分
ライブエイドのシーンには鳥肌がたった。
「ボヘミアンラプソディ」のピアノを弾くシーンで、不覚にも涙が溢れた。
「俺を認めてくれ。俺を愛してくれ」と求める孤独な男の物語が2時間続いた後に、愛する女性との邂逅、新しく愛する男性、父親との和解。。。
そんなフレディを取り巻くドラマがこの一瞬に収斂する。そんな演出が効いた。
あとはライブエイドを完コピした凄まじい音楽体験に突入し、さながらライブを観終わった後のような興奮で現実に戻る。
素晴らしい。
娯楽映画としてよくできている。
ミュージシャンの伝記映画で真っ先に思い出すのが、オリバーストーンの「ドアーズ」だけど、僕の尊敬するジム・モリソンが単なるヤク中のワガママなチンピラにしか見えなかった残念な作品だった。
そんなわけで「ボヘミアン・ラプソディ」も不安があったが、本作品ではロックミュージシャン特有のキテレツな部分は抑え、家族、友人といった人間ドラマに配慮しつつ、成り上がり者のサクセスストーリーと挫折、孤独、復活の様子がテンポよく進み全く飽きさせない。
伝記映画でありがちの最後を死で終わらせるのではなく、ライブで絶頂に盛り上がったところで終わったのも良かった。観客は余韻に浸り、僕なんか年に1、2回しか行かないカラオケに行ってクイーンを熱唱するほど興奮した。
映画のストーリー自体は凡庸だけど、この映画はそんなことは関係ない。
音楽が好きなら誰でもライブ感覚で楽しめる映画だ。
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