人間の感覚を失う恐怖〜「サウルの息子」を観て
numb
発音nʌ’m
(形容詞)麻痺している、感覚を失った
「サウルの息子」というハンガリー映画を観終わって、なぜか頭の中に出てきた単語だ。
ナチスによるホロコーストで、
ユダヤ人を毒ガス室へ誘導したり、死体の撤去、衣服からの金品の強奪、毒ガス室の掃除などは、同胞であるユダヤ人にやらせていた。
彼らはゾンダーコマンドーと呼ばれていた。
映画「サウルの息子」は、アウシュヴィッツのゾンダーコマンドーのサウルが、自分の息子を人間らしく埋葬するべく収容所の中を奔走する様子を描く中で、アウシュヴィッツの実態を一個人の目線から描いた作品である。
サウルは、ガス室で奇跡的に生存した少年を目にするが、すぐにナチスに殺される。
サウルはその少年を自分の息子だという。
その少年を人間らしく埋葬するために、収容所の中でラビ(ユダヤ教の聖職者)を探し求める。
人間の心が麻痺した世界で、人間性を保持したい。
私が思うにはおそらく息子ではないが、この絶望の世界の中で見つけた一縷の希望、自分が人間であると感じられる希望を見つけた。
彼を人間らしく埋葬することで、サウル自身の人間としての尊厳を守ることができ、生きる目的となったのだろう。
この映画の大きな話題になっている点は、その映像表現である。
カメラはずっと、主人公のサウルを追い続ける。
サウルの上半身のアップが2時間ずっと続く。
私たち観客はサウルと一体になり、アウシュヴィッツを体感する。
サウルの背景は近眼のようにぼけており、サウルのまわりで起こっていることははっきりとは見えない。だからこそより凄惨な現場の想像力を掻き立てられる。ぼけた映像から、私たち観客は地獄絵図を想像する。
ぼけた画像はサウルが見る世界を描いてるのだろうか。
誰もがあの現場を直視できないと思う。
感情を切り離して他人事と感じることが、自分の精神を崩壊させずにすむのだろう。
登場人物たちは、どこか他人事で、黙々と作業をしている。
虐待を受け続けた人間は、心を閉ざすことで自分の精神を守るときいたことがある。
人間の心を無くすことが、自分を守る術に違いない。
冒頭のガス室のシーン。
ユダヤ人をガス室へ送り込み、その重い扉が閉められる。
重い沈黙の数秒後、阿鼻叫喚の叫び声がはじまり、ここから出してくれとばかりにドアを叩く音が耳をつんざく。
僕は耳を塞ぎたくなるほどの戦慄と恐怖を感じたが、同朋をガス室へ送り出したゾンダーコマンドーの表情はうつろで無表情で、人間の感情を読み取ることができない。
完全に人間の感覚が麻痺しているかのようだ。
そのような、どこか麻痺した感じの映像が2時間近く続く。
本作品はとても地味だ。
「シンドラーのリスト」のような英雄的な美談、感動のドラマ、大きなメッセージは無い。
たんたんと、1人の男の周囲2、3メートルで起ったことを流しているだけだ。
しかし、そのシンプルな手法に、いつだれの身に起きてもおかしくないリアル感、人間が人間の感覚を失う恐怖感、numbで絶望的な感覚が、ずっしりと伝わってくる。
先週の金曜日のニュースステーションで古舘がいっていた。
世界一民主的といわれたワイマール憲法で、ナチスドイツが生まれた。
我が国にも、ナチスのような政党が台頭することも、夢物語ではないと。
numb
発音nʌ’m
(形容詞)麻痺している、感覚を失った
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